Wed. 25904

  たいやきのにおいがもれる声立てて笑っていたり君に逢う道
 今日で2月もおわり。
 こんなに命と向かい合った日々はノリさんもわたしも無かった。日ごとに回復が著しいノリさんは幸福間に浸ってる。この心地よさのままなら死んでもいい、と言ってびっくりさせる。実感なのだろう。
 それにしてもすごい食欲。エゴや野菜のひたしを喜ぶ。食事につづいておやつのつもりのやきいも、たいやき、チョコレートに手を出す。11キロ減った体重もUターン。
 夫のことを聞いてくる人はなぜ病名を知りたがるのだろう。近所の人のかなり踏み込んだ質問にわたしはそれをかわす術を持たない。不意打ちをくらって、正直に話すしかなくて後味は悪い。今は治療の途中で、どんなことになるか医療と患者の共同の戦いを告げるのはつらい。同情なのか、慰めなのか、それともああ私は病気でなくて良かった、と安心材料を仕入れるつもりなのか、好奇の目にさらされるのが救急の場合はなんと怖いことだろう。幸せボケの最中にいる人の退屈しのぎに付き合わされる身にもなってごらん、と親友なら言えるものを。始末が悪いのは悪意ではなくてむしろ親愛の情の表白だということ。鈍重さにまいってしまう。突然襲い掛かる病の影にとんだ伏兵が潜んでいるのに気がつくのには、それほどの時間が要らなかった。
 それに比べて友人たちがさりげなく応援してくださるのは力強くうれしい。とりわけ同じような境遇を味わった人の言葉は一縷のよすがとなってくれている。定年を迎えたこの年代には、だれにでも起こりうる可能性を物語っている、と友人たちは実感を込めて言う。
 ところでどうしてブログに書くのか、と言われれば限界の中であがいているから、自分を支える手法はこれが精一杯なのである。祈りの時間にも似たひとときを取り戻すのには、習慣になってる作業が抵抗がすくない。新しいことに切り替えるエネルギーはない。実際カメラにさえ手がでない。
 短歌はありがたい詩形である。ギリギリの疲弊の中にあって記録にとどめることが可能な器であった。とりあえずいまの混沌としている心境をほうリ投げて素描をしておく。
 なによりも早く日常生活を取り戻したいがためのブログなのである。写真を入れないブログにアクセスしてくれる人が大勢いるのには不思議なきもちでいる。短歌を読んでくれてるんだろうか、と思ってもみる